オリンピックが終わったと思ったら、今度は、甲子園の高校野球が始まった。たいていの人は自分の住んでいる県の代表校を応援するけれど、私はあまり関心がない。東京人には、そんな人が多いかもしれない。地元意識がない。
 それに、高校がたくさんあるから、自分の卒業した高校が代表校になることは、まずない。
 それでも、私の卒業した高校は、一回だけ、甲子園に出たことがある。とはいっても、正確に言うと、甲子園球場ではなかった。戦争中は中断していた高校野球(当時は中等学校だけれど)が、終戦直後の1946年に復活したのだが、甲子園ではなくて、西宮球場で行われた。
 私は、筑波大学の付属の小学校の生徒だった(正確に言うと、当時の名称は東京高等師範学校の付属)。兄貴分の付属中学の野球部が、東京の代表になったのである。調べたことはないけれど、国立大学の付属校が甲子園に行くことは、めったにあることではないと思う。
 付属中は、大会でけっこう善戦して、準々決勝か準決勝まで勝ち進んだ。そこで、優勝した学校と当たって、負けてしまった。相手校にはすごいピッチャーがいて、カーブを投げた。当時、カーブを投げられるピッチャーは、全国で、たった2,3人しかいないという話だった。
 神宮球場でおこなわれる東京六大学リーグでも、終戦直後には、珍事がおきた。東大が、あわや優勝しそうになったのだ。全勝同士で、慶応大学と戦った。勝てば優勝だったのに、負けてしまった。当時、慶応には、別当薫さんのような、後にプロ野球のスターになる人もいて、かなわなかった。あれ以来、東大には優勝のチャンスはなく、何十連敗の記録を何度もつくった。リーグ戦で一度でも勝つとニュースになるくらいである。
 終戦後のどさくさの最中に、世の中が落ち着てからでは、考えられないことがおきていた。たかが野球かも知れないが、面白い歴史のひとこまである。
 天の声「ふーん」

投稿者

コラーゲン博士

85歳の老人ホーム入居者 若いころは大学でコラーゲンの研究を行っていた

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