今から二十数年前の3月20日に、地下鉄サリン事件が起きた。12人の方が亡くなり、数千人の方が負傷した。
サリンは、強力な神経毒である。神経伝達物質のアセチルコリンを分解する酵素、アセチルコリンエステラーゼの働きを阻害する。そうすると、筋肉がマヒし呼吸困難におちいってしまう。
あの日、私のところに電話があった。知らない人からで、「アセチルコリンエステラーゼの中毒の解毒について教えてくれ」というのである。政治家の秘書と名乗ったように覚えている。私は「知らない」と答えた。電話はすぐ切れた。なぜ私のところに問い合わせがきたのかはわからない。
私はアセチルコリンエステラーゼと少しかかわったことがある。50年も前のことだが、脳のアリールアシルアミダーゼという酵素を追いかけているうちに、アセチルコリンエステラーゼがこの活性を合わせ持つということを見つけた。とても面白い現象だと思ったけれど、どのように発展すればよいかわからなくて放棄してしまった。
その後、インドと韓国の研究者が、小規模だがこの現象の研究を続けてくれた。最近の研究結果によると、アセチルコリンエステラーゼという酵素の分子には、二つのドアがあるという。つまり、アセチルコリンが入るメインのドアのほかにアリールアシルアミドが入るドアがある。
アセチルコリンエステラーゼは神経伝達に関与す酵素で、認知症と深い関係にある。実際、認知症の治療薬に、アセチルコリンエステラーゼの阻害剤が使われている。
そして認知症によく効く薬は、アリールアシルアミダーゼ活性の方を強く阻害するという。つまり、アリールアシルアミダーゼ活性は認知症と大いに関係がある可能性が出てきた。
もっと勝手な想像をすれば、認知症の原因とされるベータ―アミロイドの沈着は、このアリールアシルアミダーゼのドアと関係があるのではないか。
ひょっとすると認知症の治療の新しい展開につながるかもしれないと、空想している。