老人ホーム「ポムポム川の辺」に入居して、数か月がたった。その間、かみさんは美容院に行かなかった。「行きたい、行かなくっちゃ」と毎日のように言いつつ、行かなかった。初めての場所で、なじみの美容院がない、どの美容院がいいのかわからない、混んでいるかどうかわからない、予約が必要かもわからない、予約するには電話番号を知らない・・・と言い訳を言っていた。
 老人ホームに入居する時には、荷物をほんの少ししか持っていけないので、大半のものは捨ててしまった。その中には、アルバムがあった。長年撮って保存してきた写真は、すべてごみになってしまった。私たちが、まだ若かったころの写真も、息子の小さかったころの写真も、手元に一枚もない。
 ある日、かみさんは、これでは死んだときに困ると言い出した。死んだときに、遺影が一枚もないのでは困ると、言いだした。
 そりゃ、そうかもしれない。「息子に撮ってもらえば。スマホの写真でいいじゃないか」と、私は言った。
 かみさんが息子にいうと、息子は言った「そりゃ、いいけれど、美容院に行ってからにしたら」
 そういうわけで、美容院にどうしても行かなければ、ということになった。
 毎週火曜日には、ヘルパーさんが、掃除などをしてくれる。かみさんが美容院の話をしたらしい。そうしたら、ヘルパーさんが、この老人ホームにも、定期的に美容院が出張してくると、教えてくれた。しかも、その日が、たまたま、美容師さんが来ている日であった。  
 そうして、かみさんは、美容師さんのところへ、連れて行ってもらったのである。
 ずいぶんと、髪を短く切ってもらって、帰ってきた。さっそく、入居者のお仲間のおばあさんたちに見せた。
 かみさんはニコニコして帰ってきた。「若く見えるですって」 
 そして言った。「伊東ゆかりみたいだって」
 かみさんは、その日は、上機嫌だった。よかった。よかった。
 天の声「あんたは、ほめてあげたのか」


 

投稿者

コラーゲン博士

85歳の老人ホーム入居者 若いころは大学でコラーゲンの研究を行っていた

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